健康のための食事

四万十川の川漁

四万十川
四万十川の川漁

僕は、平成元年(昭和64年、1989年)八月に初めて、四万十川に行った。
きっかけは、四万十川という本に出会い、この地方の素朴な暮らしに憧れ、四万十川を調べた時に、「この川は、ダムの建設などで清流でなくなるだろう」という何かの記事を読んで、その週の夏休みに、即、テントと飯盒はんごう釣竿つりざおをもって出かけ、そしてこの川に棲んでいるという「アマゴ」を釣りに行った。(釣りなど十年ぶりだったが)
四万十と言っても全長196kmもある長い川、何処に行けばいいのか?全く分からず、気の向くまま電車に乗り、車窓からテントが張れそうな場所があった江川崎えかわざきでサッと降りた。
直ぐに川っぺりの場所にテントを張り、釣竿を持ってふらふらと四万十川の橋を渡り民家のある方へ歩いて行った。そこが「スナックけい」という場所。
すると、店前にいた太っちょの親父さんが「何、釣るが?」と声を掛けてくれた。
これが、川漁をしていた「おやっさん」との出会いだった。
「アマゴを釣りたい」と言うと、おやっさん「ここで百八ぺん竿振っても釣れんけん」という(初めて土佐弁を聞き、鬼龍院花子の生涯を瞬間感じる)「どこに行けば釣れますか?」と聞くと支流の黒尊川くろそんがわ(愛媛県)に行けば釣れるとの事。「どうやって歩いて行けばいいですか?」と問うと「歩いては行けんけん、このカブ(ホンダ製)をエンジン掛けられたら乗って行ってもいいが」と、そして「しばらく乗って無いからエンジン掛らんけんのー」、「ありがとうございます。貸してください」と二、三回キックを踏んだら掛かった(高校時代に叔父貴の酒屋でカブを乗りアルバイトをしていたお陰)
「この男、直ぐにかけよった」と面白がっておやっさん「ヘルメットないけんね、警察に捕まったら借りたなんて言うがなかよ!」と念を押され「当然です」と気持ちよく出発した。
夏の初めの四万十川の風はとても気持ちよかった。途中沈下橋ちんかばしを渡り川の右岸、左岸を走りながら黒尊川に着いたが、無論渓流釣りなどはじめて、全く釣れなかった。
何とかして食べたいと願っていると偶々たまたま通り掛かった車の人に「もっと上流に行くと養殖場があるからそこに行ったら良い」と、さっそくカブを飛ばして上流へ行くと古いバスを改造した小屋がありそこの人にアマゴを売ってもらった。「ツボ抜きは出来るがか?」と聞かれ「なんすかそのツボ抜きって?」と聞くと丁寧に割り箸を持ってきて教えてくれた。
帰り道は下り坂、スイスイと走って行ったが沈下橋を一つ越えたところでエンジンがプスプス言い始め、少ししたら止まった。「んっ」とガソリンメーターを見ると空っぽ。 当然そんなところにガソリンスタンドなどある訳もなく。、そこから5kmくらいの平坦な道をひたすらバイクを押して歩いた。
夕方「スナック桂」に着くと「ガス欠か?」と言って笑われ、「明日の朝4:00ころ川漁やるから」と言われ「ハイ」と返事をして対岸のテントに戻った。
その晩テントで、教わったツボ抜きをしてキャンプ用ガスコンロで炙ってアマゴを食べたが四万十の雰囲気も相まってとても美味しかった記憶が残っている。

翌朝、おやっさんが待っていた。さっそく小舟に乗ると先ずは仕掛けて置いた場所に行き、仕掛けを手繰たぐり寄せ手長エビ漁をすると、直ぐにバケツ二杯満タンに獲れた。今度はその手長エビをうなぎ用の仕掛けの筒に2~3匹入れて川に下ろして翌日の漁の準備が終わった。そして残った手長エビバケツ一杯分を見ながら「食べたいがか?」と言うので、「もちろん」そこでおやっさん「おまんが酒代出せ、そしたらこのバケツいっぱい食わしたる」と。すぐに岸壁に寄り、奥さんにビールを依頼して買って来てもらうと、小舟を上流に向かわせて、そこでおもむろにおやっさんがエンジンを止めた。
「乾杯しよう」船上の宴が始まる。この時獲れた川海老には二種類あり美味しい方を教わり、活きた川海老を手でき、高知など南の国の甘めの醤油で川海老の刺身をいただいた。「旨い!」僕は海老のアンモニア臭が嫌いなのであんまり海老が好きではなかったが、本当に美味しかった。
そしてこの時 、おやっさんが「今まで飲んだ酒で一番旨い」と言ってくれたことが、男として何より嬉しく今でも覚えている。
後に高知の関係の仕事をした時に地元の人に「川海老の刺身って旨いですよね?」と聞くと皆さん一様に食べた時が無いとの事で、この時初めて川漁師ならではの醍醐味と知った。
そして、おやっさんが肝硬変を患ってから酒を抑えていた事も聞いたが、19歳の僕は肝硬変が肝がんになりやすい事も知らなかった。
翌朝も鰻漁に誘ってくれたので出向き、「月夜つきよの晩は魚れんけんのー」と言いながら仕掛けを手繰り寄せては筒の匂いを嗅いで確認し(鰻が掛かっていると食べかけの川海老が死んで腐った匂いがするから)仕掛けを開けると、全部で大小5本の鰻が掛かっていた。
川漁を終えて岸壁に船を着け、「アユ釣り行くか?」と友釣り用のおとりアユを二匹持って釣竿に仕掛け、川岸を上流にゆっくりと歩いて行くと、ド素人の僕でも10分くらいで大きな天然アユが3匹釣れた。
「公共の風呂が直ぐ上にあるから入って来い」と言われ30分くらいして戻ってみるとおやっさんが釣った天然アユを二匹焼いて待っていてくれて、地元の山師、郵便局の職員なども集まっていた。
この場所はスナックなので当然酒はいっぱいある。さっそく生ビールを入れてもらいおやっさんにもご馳走してアユをほお張った。「旨すぎる!」臭みがなくタデ酢なんて全く必要ない、塩のみで、ものすごく美味しい。すかさず今度は獲れた天然鰻を捌いて蒲焼にしてくれたものを頂くとこれも本当に美味しいの一言。川鰻特有の皮のしっかりした感じもまた良い。(鰻のお腹が黄色く胸が黄色い=胸黄→うなぎになったという説もあるらしい)

この後一泊して江川崎の駅に向かう時にお礼の挨拶に行くと「コレ、持って」と奥さんに言われ、何やら紙袋を渡され江川崎の駅に向かい、予土線の宇和島行きに乗って紙袋を開けると中には大きなおむすびが二個入っていた。塩おむすび、僕は人目をはばからずに大粒の涙を流しながらほお張った記憶が今も鮮明に残っている。
それから3年間くらい毎年夏休みに川漁を手伝い、スナックの別部屋におやっさんの子供たちと一緒に寝泊まりさせてもらうことになる。
その後6年ほど行けずしばらくぶりに行こうと思い電話してみると奥さんが出て「旦那だんなさんいますか?」と聞くと「旦那さんねぇ、亡くなったんよ」と一言。
「えっ」と絶句していると「肝臓がんで5年前に」。
そう、僕が原因で酒を飲みだしてしまってすぐに死んでしまった。
奥さんと子供たちに深くお詫びを言って電話を切り、 その晩一人四万十のおやっさんと見た夏の青空を思い出しながら泣いた。
もう会えない寂しさと共に、おやっさんが地元の人を呼んで酒盛りしながら「この男、面白か男のう~」と言って紹介してくれたこと、市場に魚を売りに行く時に「昔はジャズマンして横浜でトランペット吹いて、ジャズマンは女か薬か酒に走るが、俺は酒だった」と過去を話してくれたこと、前に酒盛りした時の仲間が「どこぞの横田か~」と声を掛けてくれたことの日々が思い出される。

その後何度か機会をみては、墓参りに行かせてもらっているが、いつ行っても涙が止まらない。そして、地元の人から「去年は水面が一面銀色になるくらいアユが死んだ」とか「おまんが来た時の四万十はもう無かがよ」と言われショックを受けたが、あの時来れて良かったと感じ感謝している。おやっさんには償いきれない事をしてしまったが。

「おやっさん、本当にありがとう、そしてごめんなさい」
とても良い人に会えた、男に厳しい人だったが。
また、墓参りに行こう。

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